ヴァーツラフ・ネリベルの生涯  Life of Václav Nelhýbel

 ホフストラ大学のピーター・L・ブーンシャフト教授に心より感謝申し上げます。
 Special thanks to Professor Peter Loel Boonshaft, Hofstra University, NY.
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1. 少年時代(1919年〜1937年) 音楽へのこころざし

 ヴァーツラフ・ネリベルは1919年9月24日、チェコスロヴァキアポラーンカ・ナト・オドロウに生まれた。この一帯はシレジア地方と呼ばれ、第二次世界大戦前はドイツとポーランドと国境を接し、ロシア移民も多く居住し、複数の言語が飛び交っていた。父カレルは地主・企業家として成功し、一家は裕福だった。母ジョフィアは教会の慈善活動に熱心だった。ヴァーツラフには、15歳年上の長兄フランチシェク(その後、家業を継いだ)、次兄カレル(鉄道技師に)、ジョフィアとアンナの2人の姉(結婚して家庭を築いた)がおり、5人兄妹の末っ子だった。兄妹にはそれぞれローマ・カトリック教会の聖人の名がつけられ、ヴァーツラフの名は初代ボヘミア公の聖ヴァーツラフからとられた(誕生日9月24日が聖ヴァーツラフの記念日の9月28日に近かったため)。

 ネリベルの両親は信心深く、保守的だった。父親はヴァーツラフは商売人になればいいだろうと思っていた。母親は僧侶になることを願っていた。当時、敬虔なカトリックの母親は息子の1人を神に捧げる習慣で、兄たちはすでに進路が決まっていた。

  兄姉は田舎暮らしに満足していたが、ヴァーツラフは少し違っていた。農婦が延々と繰り返し歌う労働歌に聞き耳を立てるのが好きだった。ロシア移民の大道芸人たちの音楽にも聴き入った。

 6歳の頃、作曲家になるためピアノを習いたいと両親に頼んだが、両親にとって音楽は放浪生活のようなもので、繰り返し反対したばかりか、ヴァーツラフを音楽から遠ざけようとした。ヴァーツラフは親に内緒で町のロシア正教会(おそらく聖アンナ教会)をときどき訪れ、アカペラの礼拝音楽を聞くのを楽しみにしていた。公立学校にまだ音楽の授業がない時代で、音楽を学ぶといえば軍楽隊OB等の個人レッスンを受けるくらいしかなかったが、ヴァーツラフにとっては叶わぬ夢だった。

 

Google Map: ヴァーツラフ・ネリベルの故郷 Polanka nad Odrou

田園地帯。鉄鋼業が盛んなオストラヴァとは路面電車と鉄道で結ばれていた。合併により現在はオストラヴァ市の一部。旧チェコスロヴァキアの中央北部で、現在のチェコ共和国では東部に位置する。その西はモラヴィア地方と接している。マーカーは聖アンナ教会。(お詫び:現在マーカーが正しく表示できていません)

  ヴァーツラフは11歳の時(1931年)、親元を離れ、モラヴィア地方のイエズス会が運営するギムナジウム(中等学校)に入学した。全寮制の男子校で修業年限は8年。両親は音楽の授業がないことに安堵したが、ヴァーツラフは1日3回の礼拝でグレゴリオ聖歌を歌うことを楽しみ、学校のオルガンを自己流でマスターした。12歳の時に学校のオルガニストが急死し、その後は代役を務めた。この頃、ラジオやレコードに初めて接し、それでクラシック音楽を知った。ヴァーツラフはレコードで一人の作曲家の曲をしばらくの期間集中的に聞いたら、次は別の作曲家に移るという聞き方を続け、それぞれの作曲家の個性を習得していった。

 13歳の時、学校に楽器ができる生徒たちが少なからずいることに気づき、仲間を募ってオーケストラを作った。1週間で40人が集まり、1年後は80人になっていた。ヴァーツラフは各楽器の特性や可能性を仲間に聞き出しながら、自分で編曲や作曲、指揮を行なった。第1回演奏会はベートーヴェンの《交響曲第1番》とドヴォルジャークの《スラヴ舞曲 第8番》に加え、自分で作曲した曲だった。学業成績は抜群で、学校の勉強以外に和声や対位法、オーケストレーションの本を読みあさった。
 1937年(17歳)、ギムナジウムの最後の2年間は首都プラハにあるイエズス会の別の寄宿舎学校に移った(転校の理由は不明。進学準備だろうか)。翌年の5月21日、卒業まであと4週間という頃、食堂で昼食の時にドイツ人校長がチェコの知識人を侮辱する発言を聞いて憤慨し、校長にイスを投げつけた。即刻、自宅謹慎処分となった。退学を覚悟したが、イエズス会から支持を受けて学校に復帰し、6月に卒業した。

 

2. プラハ大学時代(1938〜1945年) 忍び寄るナチス・ドイツの影

 1938年8月、ネリベルは首都プラハにあるプラハ・チェコ大学に入学した。チェコスロヴァキアの最高学府であると共に、中央ヨーロッパ最古の歴史をもつ大学で、戦争のたびに閉鎖や分裂を経て改称し、現在はプラハ・カレル大学。ギリシャ・ラテン文学専攻ということで両親も納得したが、古典的な和声や対位法も当時の人文科学の研究対象だった。
 この年の3月にオーストリアを併合していたヒトラーは、次にチェコスロヴァキアに目をつけ、9月29〜30日のミュンヘン会談ズデーテン地方(旧チェコスロヴァキアのシレジア、モラヴィア、ボヘミア地方の外縁部。多くのドイツ人が居住)を強引に獲得し、ネリベルの実家はドイツ領になった。これによりネリベルは家族と離別した(ネリベルの幼少時代や家族の写真がないのはこれが理由だろう。1945年に一度だけ兄姉と再会したが、それが永遠の別れだった)。

 その夏、ネリベルはチェコ九重奏団の演奏に感銘し、9月までに《九重奏曲》を作曲していた。楽譜をラジオ・プラハに持ち込んだものの反応は芳しくなく、そのままラジオ局に託した。すると数日後ラジオ局から連絡があり、チェコ九重奏団の演奏で10月に放送が決まったという。この成功がきっかけでネリベルはラジオ・プラハのディレクターの目に止まり、同局の専属作曲家としてアルバイトすることになった。同じ10月、聖トーマス教会からのオルガニストのオファーも引き受け、自分で生活費を稼げるようになった。

 

強制労働を逃れチェコ大学からチェコ音楽学校へ(1939年11月〜1940年12月)

 翌1939年の3月、ヒトラーはチェコスロヴァキアを解体し、ドイツ軍がボヘミア、モラビア、スロヴァキアに進駐した。11月15日の学生らによる反ナチ・反占領デモに報復し、知識人を一掃するため、ドイツ軍は11月17日の朝、各大学を閉鎖し、学生を次々に逮捕した。ヴァーツラフはプラハ大学の門前でその一部始終を目撃し、急いでチェコ音楽学校プラハ校(現・プラハ音楽院)にかけ込んだ。面識のある学校長に頼み込み、作曲学科への編入学を即座に許された。素早い判断と行動で命拾いしたネリベルだったが、この時ドイツのザクセンハウゼン強制収容所に送られた多くの学友たちを失った。

 チェコ音楽学校ではヤロスラフ・ジートキー(Jaroslav Řídký)に作曲を、フベルト・ドレジル(Hubert Doležil)に指揮を学んだ。当時、ドイツ軍によってロシア人やアメリカ人、ユダヤ人作曲家の音楽(ムソルグスキーやリムスキー・コルサコフ、ストラヴィンスキーやシェーンベルクら)は禁止され、楽譜や書籍は焼かれた。そのため教材はドイツのバロックやクラシックが中心だった。反ユダヤ色さえなければスメタナやドヴォルジャーク、ヤナーチェクら自国の作曲家の音楽を学ぶことはできた。ドイツ軍は音楽学校の学生は政治的に無害と考え、手を出さなかった。だが、ここもネリベルにとっては必ずしも安全な場所ではなかった。

Google Map: プラハ市内の主要な場所

マーカー左から順に、聖トマス教会、プラハ音楽学校、プラハ・カレル大学、ラジオ・プラハ。(お詫び:現在マーカーが正しく表示できていません)

 

強制労働を逃れゲルリッツへ(1941年1月〜1942年12月)

 1940年の秋、ドイツ軍は大学から逃亡した学生たちの追跡キャンペーンを行った。ネリベルは年末までにドイツ軍の知るところとなった。プラハ大学閉鎖から1年以上が経ち、ラジオの電波で町じゅうに名前が知れ渡っているネリベルにとって、この発見は遅すぎたかもしれない。

 幸い、逮捕や強制連行ではなく、まず書類の提出が求められた。それを拒んだら逮捕されるので、ネリベルは従った。身体検査を経て、ネリベルにはドイツのハンブルクで強制労働を課すという通知が届いた(おそらくノイエンガンメ収容所)。仕事は「イギリス軍による爆撃の残骸撤去」と書かれていたが、強制労働がどんなものか分かっていたネリベルは逃れるすべを考えた。折しもドイツのゲルリッツ市民劇場の代表者がプラハ市内で男性合唱団員とオーケストラ団員と伴奏者を募っていることを知り、オーディションを受けて伴奏者に採用された。これによりハンブルクでの強制労働を免除され、音楽家として生活していけることになった。

 ゲルリッツに出発するまでは、チェコ音楽学校で学び続けることができた。その頃、音楽学校では新しくドイツ語の授業が始まっていた。これは実質的にはナチスのイデオロギー教育で、ネリベルは再三の警告にも関わらずこの授業への出席を拒んだため、卒業を目前に退学処分となった。

 ネリベルは卒業作品としてすでに2曲を完成させていた。ドイツ軍のチェコスロヴァキア侵攻を扱った《吹奏楽のためのリタニー(連祷)》はネリベル自身がラジオ・プラハに紹介し、1941年にゲルリッツに発った後、同局のバンドが放送初演した。もう1つの《アレルヤ交響曲》は、同じく1941年にチェコ・フィルハーモニー交響楽団によって初演された。音楽学校が退学した学生の作品をチェコ・フィルに提供したことも異例、卒業作品を音楽学校のオーケ ストラではなくチェコ・フィルが初演したことも異例だった。戦後、チェコ音楽学校はネリベルに卒業証書を与えようとしたが、ネリベルは拒否した。

 

プラハへの帰還(1942年12月〜)

 1941年1月、ネリベルはドイツのゲルリッツに発った。市民劇場のピアノ伴奏の仕事は納得していたものの、実際には指揮者の仕事もあり、早くプラハに帰りたく、渋々働いていた。最初のシーズンが終わった8月に2週間の夏期休暇を与えられ、プラハに一時帰郷したが、この時、左手首の病気を装うことを思い立ち、医師の友人から症状の詳細を聞き出した。9月にゲルリッツに戻り、劇場の理事長に病気を報告すると、検査のために医療機関に送られた。ドイツ当局は仮病を見抜けなかったが、ネリベルに不信を抱き、6週間の自宅謹慎を言い渡した。ネリベルはこれから逃れる方法を考えた末、劇場が求めている合唱団員として歌うことを申し出て当局を納得させた。10月中旬から12月末まで、手首の病気を装ったまま、モンティヴェルディ/オルフ編の《オルフェオ》(演奏例)の公演で合唱団のテノールを歌った。この行動で当局が信用し、12月のクリスマス休暇にプラハに一時帰郷する許可が出た。

 帰郷したネリベルはプラハの医療センターでも検査を受けた。センターは仮病が見抜けず、ネリベルの病気が重度で、ドイツでのあらゆる労働に適さないと診断した。この結果がゲルリッツ市民劇場に知らされ、劇場職員がネリベルのアパートを訪ねると、一時帰郷にもかかわらず部屋はもぬけの殻で、ネリベルの意図的な逃亡は明らかだった。だが、オーケストラや合唱団の団員をチェコやポーランド、ユーゴスラヴィアなどからの40人近い徴用外国人に頼る劇場は、団員に動揺が広がらないよう、ネリベルの起訴を見送った。その後、団員たちは大戦末期に軍を支援する重労働のためドイツ東部に借り出された。

Google Map: ゲルリッツ市民劇場

マーカー上がゲルリッツ市民劇場、下がプラハ。(お詫び:現在マーカーが正しく表示できていません)

 

  翌1942年から1945年の終戦まで、ネリベルはラジオ・プラハの専属作曲家としてプラハに住むことができた。作曲家として知名度が高まり、国内のさまざまな楽団から作曲の委嘱が舞い込んだ。1942年の《ミサ・グラゴリカ》、 1942〜43年のバレエ曲《炎の祭典》、1944年のバレエ曲《結婚》。1945年のバレエ曲《ライムの木陰》はコペンハーゲンの国際音楽会議で入賞した。

  第二次世界大戦中の3度の命拾いについて、ネリベルは「幸運は自分で作るもの」と答えている。適切な判断と行動で幾多の危機を乗り越えたネリベルだからこそ言える言葉だ。

 

3. 祖国との決別(1946〜) スイス〜ミュンヘン〜アメリカ合衆国

 1945年5月9日、ソ連軍がプラハを解放し、大戦が終結した。東欧諸国は解放されるのと引き替えに、共産主義勢力が徐々に強まっていった。

 プラハ大学が4年ぶりに再開し、その記念式典でネリベルのバレエ《結婚》と《炎の祭典》が上演された。ネリベルは大学に復学し、聖トーマス教会とラジオ・プラハでの仕事にも戻ることができた。

 4年前に大学が閉鎖されて以降も、ネリベルは音楽科のヨゼフ・フッテル(Josef Futter)教授を手伝ってバロック時代の弦楽器用タブラチュア譜を現代の記譜に直したり、チェコのバロック音楽の専門家ラディスラフ・ヴァチュルカ(Ladislav Vachulka)教授の元で古いパート譜からスコアの復刻を手伝うなど、音楽史の研究を進めていた。そのフッテル教授もプラハ大学に復帰した。1945年末、ネリベルはフッテル教授を指導のもと、当時研究していたスラヴ民謡のリズムをテーマに博士論文を作成しようとしていた(ネリベルは大学卒の学士号を取得していない。詳細は不明ながら、当時はストレートに博士号を取得できたと考えられる)。

 

スイスでの勉学と仕事(1946〜47年)

 スイスのフリブール大学は、戦後復興に寄与するため、戦渦に巻き込まれた国々から奨学金留学生を募っていた。チェコスロヴァキア政府に対して4人の枠を提示し、うち1人は音楽学の学生だった。1946年5月、26歳のネリベルはフッテル教授の推薦でフリブール大学に留学し、フランツ・ブレン(Franz Brenn)教授の元で博士論文のための研究を始めた。
 ブレン教授はスラヴ民謡のリズムに関するネリベルのこれまでの研究を高く評価し、ネリベルにスイスのレザンにある国際大学学生サナトリウムで授業をしてみないかと勧めた。結核で長期の療養生活を送っている学生たちに知的な刺激を提供する授業の1つだった。授業は好評で、ネリベルはブレン教授の推薦でフリブール大学の講師になり、作曲と音楽理論の演習を担当した。

 これより前、ネリベルは戦後プラハでストラヴィンスキー《ペトルーシュカ》の実演を初めて聴いていた。戦時中の禁止が解けてスコアやレコードが出回り始め、なかでも《兵士の物語》の演奏を聞いて感銘を受けた。スイスではストラヴィンスキーに関する情報にも恵まれていた。しかも幸運なことに、ストラヴィンスキーについて知る上で最高の助っ人が2人も現れた。1人はジュネーヴに本拠を置くスイス・ロマンド管弦楽団の指揮者エルネスト・アンセルメで、ストラヴィンスキーの親友で良き理解者だった。もう1人はストラヴィンスキーの息子で画家のテオドル・ストラヴィンスキーで、同じくジュネーヴに住んでいた。幸運に恵まれ、ネリベルは12月にフリブール大学のブレン教授とプラハ大学のフッテル教授の承認を受け、博士論文のテーマを《兵士の物語》に変更した。

 また、フリブールに住んで間もない頃、ネリベルはフリブール郵便局に行った。この街はフランス語とドイツ語が使われ、ネリベルはドイツ語で生活していた。だがこの時、窓口の郵便局員はフランス語しか話せず、互いに困っていると、後ろに並んでいた紳士が通訳を買って出てくれた。その男性はスイス国営放送(現・スイス放送協会)に勤めており、チェコスロヴァキアに14年間住んでいた時にラジオでネリベルの名を聞いて知っていた。この出会いがきっかけで、ネリベルは3週間後にラジオ・ローザンヌで録音のために自作曲を指揮することになった。リハーサルは短週間で覚えたフランス語でこなした(戦時中の記憶からドイツ語は使いにくいムードがあった)。この成功によりネリベルの元にスイス国営放送から専属作曲家と指揮者のオファーが舞い込み、喜んで引きうけた。仕事は各国の民謡を扱った毎週1時間の番組を製作することだった。スイス国営放送に就職したことから、ネリベルはチェコスロヴァキア国籍のまま、就労しながらスイスに滞在し続ける許可が下りた。

Google Map: フリブール大学とスイス国営放送(ベルン)

中央がフリブール大学、右上がスイス国営放送、左下がサナトリウムで授業を行った保養地レザン。(お詫び:現在マーカーが表示できていません)

 

チェコスロヴァキアの共産化(1948〜50年)

 スイス滞在中、プラハには自由に帰ることができた。その何度めかの帰郷の際、ネリベルはチェコスロヴァキアが共産主義に移行することを知った。時期は定かでないが確実だった。そうなれば個人の自由は失われ、音楽家として生きていけるか分からないと考えたネリベルは、スイスへの移住を決意した。ただ、1948年の初め、博士論文の草稿ができあがり、それをプラハ大学に提出したい気持ちもあった。

 2月25日のプラハのクーデター(2月事変)により共産党がチェコスロヴァキアで全権を掌握すると、鉄のカーテンにより国内外との行き来は決定的に厳しくなった。論文の提出どころではなくなった。ネリベルは急いでプラハに蔵書や自筆譜などの私物を取りに戻った。国境職員にはフリブール大学での授業に必要な資料を取りに戻ると言って納得させた。代表的な曲の自筆譜は国民劇場やラジオ・プラハ等にあったが、そこでそれらを返してくれと申し出たら、拘束される恐れがあった。それらの施設にある自筆譜は諦め、自宅にある自筆譜や蔵書を数箱の荷物にまとめ、急いで列車でプラハを後にした。

 スイスに戻るとパスポートを警察に預けて無国籍になり、スイス国籍が下りるのを待つことにした。といっても、市民権を得るにはスイスに10年も住まなければならなかった。その後、スイス国営放送の他にラジオ・ベルン、ラジオ・バーゼル、それにスイス・ロマンド管弦楽団でも指揮する機会に恵まれた。

 祖国のニュースに触れるたび、ネリベルはスイスにいられることに安堵した。だがその一方で、それまでの生活の根っこを失っていることも感じていた。特に引っかかるのは博士論文だった。スイスに来たのは論文を書くことが目的だった。だが、その論文を提出することはもう不可能だった。共産勢力の下にあるプラハ大学が、ソ連からアメリカに亡命した作曲家をテーマとする論文など受け取るはずがない。論文のことが悔しく、そのことを忘れた日は一日もなかった。

 ある日、アンセルメの家を訪れたネリベルは、そこで自分の論文を焼いた。ネリベルの突然の行動にアンセルメやテオドールらは驚き、心配した。だが、この事件によってネリベルは気持ちに踏ん切りがつき、新しい生活を受け入れ、創造的な生き方が可能になった。人生を変える大きな転機だった。

 

ラジオ・フリー・ヨーロッパでの活躍からアメリカ移住へ(1951〜56年)

 1950年6月、朝鮮戦争が勃発し、米ソ両国の支援によって国際紛争と化した。はるか遠いアジアの紛争ではあるが、ヨーロッパが再び巻き込まれるかもしれない。豊かなスイスが攻撃の対象になるかもしれず、スイスの中立がいつまで続くか分からない…。そんな心配から、ネリベルはもっと別の国への移住を考え始めた。そんな折、首都ベルンでカナダ大使館の職員たちと会う機会があり、カナダへの移住を強く勧められた。フランス語が通じるケベック州ならネリベルが力を発揮して活躍できると太鼓判を押された。こうしてネリベルはカナダへの移民ビザを申請した。

 9月、ネリベルのもとに2通の手紙が届いた。1つはカナダ領事館からの移民許可で、これにより年末までにケベック州に移住できるようになった。もう1つは英語で書かれ、英語が分かる学生の援助で読み解くと、当時の西ドイツのミュンヘンに開局予定のラジオ・フリー・ヨーロッパ(自由ヨーロッパ放送)の音楽ディレクターとしての誘いだった。アメリカ合衆国政府が運営する新しい放送局で、共産圏となった東ヨーロッパの各国に向けて西側の情報や音楽などを届けることを目的としていた。

 両者を天秤にかけ数日間迷った末、ネリベルはラジオ・フリー・ヨーロッパを選んだ。そうすればヨーロッパに住み続けられ、将来的に紛争があってもアメリカの傘下にいれば守ってもらえそうだった。移民ビザはカナダ大使館に丁重に返納した。年が明け1951年1月初旬、ネリベルはミュンヘンに移った。準備期間を経て、5月1日にチェコスロヴァキア向けのラジオ放送が始まった。日々の番組の中でどんな曲を流すかアメリカ人スタッフに提案することがネリベルの仕事だった。祖国では共産党政権が認める音楽しか聞けないだろう。その決定権がヒトラーからスターリンに移ったに過ぎない。同胞を助けに戻ることはできないが、放送を通じて役に立ちたいと願い、ネリベルは「禁止音楽」や西側在住のチェコスロヴァキアの作曲家に関する情報を電波に乗せて祖国に届けた。

 8月下旬、テオドルから、父ストラヴィンスキーが9月11日にヴェネツィアのフェニーチェ劇場《放蕩者の遍歴》の初演を指揮するから聴きに来ないかという電話があった。しかも、ストラヴィンスキー本人に会えるかもしれないという。ネリベルは胸を高鳴らせて招待を受け入れた。初演の翌日、ネリベルはサンマルコ広場でテオドルの紹介でストラヴィンスキー夫妻と食事を共にした。ストラヴィンスキーは多くの時間、答えの出ないような問いを通して、自分の過去を回想した。ロシア語、仏語、独語が次々に繰り出すこの時の会話は、ネリベルの人生で最高の時と振り返る。テオドルはネリベルの博士論文のことには触れなかった。ネリベルは自分の研究成果を守りたかっただろうし、父も誤った解釈があれば気分を害するだろうという配慮だった。

 この年の12月、大きな問題が起こった。スイス政府から連絡があり、ネリベルがミュンヘンにいる限り1年ごとのスイス滞在許可は更新できず、スイスに戻れば更新すると告げられた。ネリベルが困り果てていると局の幹部が支援に動き、ネリベルが合衆国の市民権を得られるよう合衆国政府に働きかけた。おかげでネリベルはまずアメリカ移民の立場で、将来的にはアメリカ国籍でラジオ・フリー・ヨーロッパで働き続ける道が開かれた。

 国籍を得るためには一定期間アメリカに居住する必要があった。1952年4月1日、31歳のネリベルは移民としてアメリカへの第一歩を踏み出した。大都会ニューヨークの印象は最悪だった。雑踏に混雑、街の汚さ。しかも人生で初めて言葉が通じない場所での生活だった。仮住まいはブロードウェイ沿いのアンソニア・ホテル。ラジオ・フリー・ヨーロッパの本部はカーネギーホールに隣接する57丁目西110番地にあり、そこで通訳の助けを借りて会議を行う毎日だった。観光でシカゴやボストン、ワシントンD.C.を訪れたりもした。ネリベルはこの時英語を学ぶ必要を感じたが、彼にとっては難しいことではなかった。3週間の滞在の後、ミュンヘンに帰り、ラジオ・フリー・ヨーロッパの仕事を続けた。2年後の1954年と、また2年後の1956年もニューヨークに3週間滞在し、アメリカ国籍取得のための実績を積み重ねた。
 ところが、情勢はまた変化した。1956年10月、ソ連の支配に民衆が蜂起したハンガリー動乱参考映像)よってソ連が軍事介入し、米ソ間の緊張が高まった。これによりラジオ・フリー・ヨーロッパの番組は政治色を強め、文化的な内容はその穴埋め程度に減らされた。それでもネリベルは働き続ける一方で、少しずつアメリカへの移住を考え始めた。ネリベルが自力で移れる唯一の国だった。

 その頃、ネリベルはミュンヘンでドロシア・ディナンド(Dorothea Dinand)という女性と出会った。ドイツのシュツットガルト出身で、父はベルギー人、母はドイツ人だった。テュービンゲン大学に学んだ後、ミュンヘンの通訳学校に通っていた。ネリベルは差し迫った状況から急いで求婚し、1957年3月27日にドロシアと結婚した。

 この年の6月21日、ネリベルはラジオ・フリー・ヨーロッパを退職すると共に、ドロシアより先に単身でアメリカに渡った。

Google Map: ニューヨーク仮滞在の拠点

マーカー左上:アンソニア・ホテル、右下:ラジオ・フリー・ヨーロッパの本部(お詫び:現在マーカーが表示できていません)

 

4. アメリカでの新生活(1957年〜)

 アメリカでの生活を援助してくれる友人がいた。ラジオ・フリー・ヨーロッパ時代の同僚プロデューサー、ビル・ガイブ(Bill Geib)で、彼も少し前に退社してニューヨークに住んでいた。ネリベルはガイブが見つけたニューヨーク市クイーンズ区のアパートで暮らし始めた。

 妻ドロシアの渡米に関して、ネリベルはもうラジオ・フリー・ヨーロッパから援助を受けられる立場ではなく、自分もまだアメリカ市民でなかったため、ドロシアは自分で書類を準備し、10月10日にニューヨークに遅れて到着した。その後、ダブルデー出版社の事務員をして働き、ほどなくして英語に慣れてくるとマクグロー・ヒル出版社の外国権利課長の秘書になり、持ち前の語学力を生かして働いた。

《弦楽四重奏曲》のスコア
《弦楽四重奏曲》のスコア

 ネリベルはアメリカでも盛んに作曲活動を行い、徐々に知名度が上がっていった。

 アメリカに来る前、ネリベルの出版作品はミュンヘン・フィルハーモニーの弦楽四重奏のために書いた《弦楽四重奏曲(第1番)》とベルン交響楽団のために書いた《木管5重奏曲(第1番)》の2曲だけで、どちらもオイレンブルク出版社から出ていた。アメリカ合衆国では、C.F.ペータース出版社がその代理店だった。1957年の年末、ペータース出版社がネリベルの合衆国の歓迎パーティを開いた。その中にアメリカン・ウィンド・シンフォニー・オーケストラの指揮者、ロバート・ブードロー(Robert Boudreau)がいた。4管オーケストラの管楽器セクションというこの団体の独特な編成にあった作品をさまざまな作曲家に委嘱していた。ブードローの依頼により、アメリカでの最初の委嘱作品《管打楽器のためのパッサカリア》を書いた。

 ネリベルがまだミュンヘンにいた1954年、ニューヨークのラヴィッチ財団が翌年、一幕のオペラの作曲コンテストを行うことをガイブが教えてくれ、ガイブの詩に基づき《レジェンド》を作曲、入賞した。その時の審査員にアルノルト・シェーンベルクの娘婿でマークス音楽出版社の主幹編集者のフェリックス・グライスル(Felix Greisle)がいた。ネリベルがニューヨークに住み始めたばかりの頃、グライスルが街を案内してくれたりもした。彼はネリベルにマークス出版社の編集者に誘ったが、ネリベルは作曲に専念したかったので丁重に断った。

 1957年10月、ネリベルはカーネギーホールの近くで、見知らぬ紳士から「失礼ですが、ボヘミア出身ですか?」と声をかけられ、近くのホーン&ハーダード(自動販売機レストランのチェーン店。参考映像おまけ)で話し込んだ。するとその人、フランツ・アラーズ(Franz Allers)は、チェコスロヴァキア出身でブロードウェイで活躍中の指揮者だった。アラーズは毎年12月にマディソン・スクエアで行われるハヌカ祭(ローソクを灯して祝うユダヤ教の祭)の責任者だった。この年は舞踏家で振付家のパール・ラング(Pearl Lang。マドンナに踊りを教えたことで知られる)のバレエ上演が計画され、作曲家を検討している最中だった。ネリベルの家で作品のテープを聞いて気に入ったアラーズは、パールにも聞かせた。パールの依頼で書かれたバレエ曲《ユディト記》(出典)は、この祭でニューヨーク・フィルハーモニックが初演し、後にフィラデルフィア管弦楽団によって再演された。

 ハヌカ祭のリハーサル中、ネリベルはこの行事のプロデューサーだったハイマン・ブラウン(Hyman Brown)から、ロッド・シュタイガー(Rod Steiger)の朗読用にBGMを急いで書けないかと声を掛けられた。砂漠を歩く話の音楽をピッコロとスネアドラムを用いて20分で書き上げてみせた。シュタイガーの本業は映画会社のプロデューサーで、これがきっかけとなり、4ヶ月後にテレビシリーズ『インターナショナル・エアポート』の音楽を担当することになり、ミュンヘンでレコーディングを行った。ところが帰国直後、番組は製作中止になった。当時、アイドルワイルド国際空港(現ジョン・F・ケネディ国際空港)で旅客機の地上衝突事故があり(ニュース映像)、撮影クルーの責任が問われたためだった。幸いギャラは受けとれた。

 同じ頃、ニューヨークのマネス音楽大学管弦楽団の指揮者カール・バンベルガー(Carl Bamberger)は、ドロシアの同僚に知人がいたことから、ネリベルにヴァイオリンを使わないオーケストラ曲を書いてくれないかと打診した。ネリベルは同じ編成の《管弦楽のための3つの旋法》という作品がすでにあり、それを提供した。その演奏を聞いた中に、ジェネラル音楽出版社とシリナス・レコードの会長ポール・キャップ(Paul Kapp)がいた。演奏後、キャップはネリベルに歩み寄り、ジェネラル出版社から楽譜を出版することを提案した。翌日、キャップはネリベルの家でテープを5時間聞き、翌朝5時、ネリベルは21曲の出版契約書にサインした。また、17曲をプロの演奏でシリナス・レコード社からリリースすることになった。

 ニューヨークでの指揮者デビューは1958年9月11日、カーネギーホールで曲目はバッハの《音楽の捧げ物》抜粋、《カンタータ152番》他(翌日の The New York Times の記事。有料で全文購読可能)。

 アメリカで最初に書いた作品《ヴィオラ協奏曲》は、ヤシ・ヴェイシ(Jashi Veissi)の独奏で1959年にスイスで初演された。アメリカでの最初の出版作品はトランペットとピアノのための《ゴールデン・コンチェルト》で、エディション・ムジカスから発売された。ネリベルは渡米後も時々ヨーロッパに戻って指揮したが、1960年頃からはアメリカでの活動が中心となっていった。

LPレコード『伝統和声学』
LPレコード『伝統和声学』

 1960年代、経緯は定かではないが、ネリベルは作曲の基礎を学ぼうとする人たちのための教材を開発した。ちょうど普及してきたLPレコードを媒体とし、解説書(説明文と譜例)に加え、ナレーションと実演を学習者が耳で聞けるようにしたものだった。フォークウェイ・レコード社から計8品目が発売された。ナレーションは1作めがアレキサンダー・セムラー、2作め以降は友人のビル・ガイブが行った(詳細は「教則レコード/CD」)。

 1962年、ネリベルにマンハッタンの聖エリザベス教会から電話があった。この教会はスロヴァキア系で、オルガン奏者とスロヴァキア語に堪能な合唱指揮者を求めていた。ネリベルは作曲に専念するため拘束されたくなかったので一度は断った。だが、どうしてもネリベルを招きたい牧師は、教会の建物内にある3部屋の広い住居の提供を申し出た。これを好条件と考えたネリベルは引き受け、1968年に引っ越すまでの間、夫妻はステンドグラスの窓のある部屋で暮らすことができた。

 この年、ネリベルはアメリカ国籍を取得した。初めてのニューヨーク滞在から10年が過ぎ、要件を満たしていた。

 

5. 吹奏楽と共に歩む(1964年〜)

 1963年、ネリベルがあるパーティに参加した時、主に学校・教会用の楽譜を手掛けるキャニオン出版社の経営者、アニソン・デメレスト(Alison Demerest)がネリベルに歩み寄った。彼女はラジオでネリベルのことを知っていて、アメリカの高校バンドの演奏をぜひ聴くといいと勧めた。ヨーロッパ育ちのネリベルにとって、吹奏楽は行進や葬儀、教会の礼拝で使われる実用音楽で、アニソンの話には興味がなかった。アニソンは3月に大きなイベントがあるといって参加を勧めたが、ネリベルは一顧だにしなかった。だが、アニソンは翌週からネリベルに何度も電話で参加を勧めた。

 同年3月1日〜4日、ニュージャージー州アトランティックシティ(ニューヨークから南に200kmほど)における音楽教育者会議(MENC)の全米大会(現在でいうバンドクリニック)に、ネリベルはアニソンの運転する車で訪れた。「1時間だけ」いう約束で渋々の参加だった。現在のバンドクリニックのような教育イベントで、吹奏楽だけでなく合唱やオーケストラによる演奏もあった。到着するとまずオーケストラと合唱を聞いた。まずまずの演奏だったが、特に興味はなかった。次に大学バンドの会場に案内された。100人もの大学生が演奏を準備していた。ネリベルはこんな大人数でいったい何をやるのかと冷ややかだった。曲はパーシケッティの《ページェント》(演奏例)。演奏が終わると、ネリベルは足早にホールを出た。アニソンは心配で後を追ったが、心配は無用だった。パーシケッティが見事な技術でコンサートバンドの特性を生かしている点に驚いていた。続いて中学校バンドの会場を訪れた。この時の印象をネリベルは「好奇心に火がついた」と振り返る。ネリベルは予定を変えてホテルに1泊し、翌日アニソンの紹介で指導者たちと会い、教育システム、カリキュラム、予算、練習、教員の研修などについて次から次へと質問した。指揮者たちの熱心さにも感銘した。

 帰宅後、ネリベルは吹奏楽のためにすぐに曲を書かずにはいられなかった。ネリベルの脳裏に浮かんだのは自分自身の寄宿舎学校のオーケストラだった。技術は足りなかったが情熱にあふれていた。ネリベルは高校生や大学生向けのハイレベルな曲の作曲はできたが、そうではなく初歩的なバンド向けの曲を書きたかった。「子どもの心に響く曲が書けるだろうか?」と自問しながら、中学生の限られた音域や技術について学び、吹奏楽のスコアやテープをさまざま研究した上で、最初の曲を書き上げ、近隣の普通レベルの中学校に持ち込んだ。思った通りのできで狙いを達成していた。これにその後3曲加え、《ボヘミア組曲》と命名した。後日アニソンの勧めで出版されたが、出版が目的というより、作品を通して若者と交流したい気持ちのほうが強かった。

 第一線のバンド指導者たちから作曲の委嘱が始まり、1965年には《コラール》《トリティコ》《シンフォニック・レクイエム》、66年には《プレリュードとフーガ》《交響的断章》などの個性的で優れた作品で吹奏楽界に衝撃的なデビューを果たし、それは日本にもいち早く伝わった。

 1968年、夫妻は子どもを授かることが分かった。ネリベルは大都会ではなく自分が育ったような自然のなかで子どもを育てたいと思い、聖エリザベス教会を辞め、コネチカット州リッジフィールドの別荘に転居した。《フェスティーヴォ》を出版したこの年の8月、祖国ではチェコ事件が起きた。プラハの春を初めとする自由化政策に対し、ソ連が軍隊を送って自由化を抑圧したものだった。ネリベルはどんな思いでそのニュースを聞いただろう。
 1969年1月6日、女児ヤナ・エリザベス(Jana Elizabeth Nelhybel)が誕生した。この年、《二つの交響的断章》を発表した。この頃まではフランコ・コロンボ出版社がネリベル作品を積極的に手掛けていた。1970年にはヤマハ吹奏楽団浜松(原田元吉)の委嘱による《ヤマハ・コンチェルト》が完成している。
 1971年2月9日、男児クリストフ・ジャン(Christophe Jan Nelhybel)が誕生した。翌年《アンティフォナーレ》を出版している。

JCMC1986年カタログの表紙
JCMC1986年カタログの表紙

 1975年、55歳の時、コネチカット州ニュータウンに転居した。翌年、クリストファー音楽出版社(Christopher Music Company, CMC) を設立して音楽業界に参入。初級バンド向けの自作曲を出版。その後、J. Christopher Music Company (JCMC) と改称した。

 1978年12月13日、ネリベルは全米吹奏楽協会が「吹奏楽界のオスカー賞」として設立したAWAPA賞(吹奏楽アカデミー賞)を受賞した。

 1980年代のネリベルに関する情報はきわめて少ない。放送局や教会等に所属せず作曲に専念し、客演指揮やクリニック等で積極的に全米各地を巡っていたと考えられるが、これから徐々に書き加えていきたい。精力的に創作活動を続けていたが、吹奏楽曲を見る限り、1983年作曲の《復活のシンフォニア》、1986年の《クロノス》《カントゥス》といった一握りの大曲と多くの初級向けという「二極分化」が進んでいったように見える。

 1994年にペンシルヴァニア州スクラントンにあるイエズス会系のスクラントン大学の合唱・吹奏楽指導者シェリル・ボーガ(Cheryl Boga)の強い要請によりコンポーザー・イン・レジデンスに迎えられたが、1996年3月22日に76歳で死去(New York Times の訃報)、ダルトンの自宅に近いクラークスサミットのアビントンヒルズ墓地に埋葬された。

Google Map: ネリベルが晩年過ごしたスクラントン

マーカー左上:アビントンヒルズ墓地にある墓の位置をかなり正確に示した。右下:スクラントン大学のヒューリハン=マクリーン・センター(旧イマニュエル・バプティスト教会)。ホール、練習場、現在はネリベル・コレクションもある。(お詫び:現在マーカーが表示できていません)

 

6. 没後の動向

ネリベル・コレクション開所式次第
ネリベル・コレクション開所式次第

 ネリベルが生前に出版された作品は400曲あまり。後日、自宅の倉庫から未出版曲の楽譜が200曲ほど見つかった。ドロシア夫人は「VN番号」を振って整理し、スクラントン大学に寄贈した。それらを元に、1999年9月9日、同大学のヒューリハン=マクリーン・センター内に「ネリベル・コレクション」がオープンした(所長にドロシア・ネリベル、管理者にシェリル・ボーガ)。ドロシアはバータ音楽出版の名称を引き継ぎ、未出版曲について希望者にオンデマンドで提供している(販売/レンタル)。近年、米国の複数の出版社が未出版曲の出版に乗り出している。また、すでに知られる曲について他者によるグレードを下げた編曲も現れている。

 2011年1月17日、スクラントンの地元テレビ局WNEP-TVのディレクターだった息子のクリストフが病気のため39歳の若さでこの世を去った(WNEP-TVが報じる翌年の追悼演奏会記事)。

 没後20年の2016年3月7月8日〜12日に開催された世界吹奏楽大会(WASBE)プラハ大会はチェコ出身の作曲家に焦点が当てられ、ネリベルの作品も取り上げられた。
 生誕100年の2019年、ネリベルの音楽が改めて脚光を浴びている。

 

ニュース・近況

 

12月10日 コバケンとその仲間たちオーケストラ 史上最高の第九に挑むVol.4に出演予定です(東京)

 

6月25日 コバケンとその仲間たちオーケストラ第86回演奏会に出演予定です(東京)

 

6月23日 10年に及ぶ準備を経て、このたび『アルフレッド・リードの世界 改訂版』が刊行されました。どうぞよろしくお願いいたします。

 

4月23日 真島俊夫メモリアルコンサート"natal"2023(山形県鶴岡市)に出演しました。

 

4月15日 全音スコア、ブラームス《ヴァイオリン協奏曲》が発売されました。楽譜制作担当です。

 

2023年

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1月25日 アルフレッド・リードが生誕101年を迎えました。

 

1月15日 全音スコア、リムスキー=コルサコフ《スペイン奇想曲》、全音ピアノライブラリー『マスネ:ピアノ小品集』が発売されました。楽譜制作担当です。

 

1月8日 『バンドジャーナル』2022年2月号の「コンサートレビュー」にオオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ第139回定期演奏会の報告を書きました。

 

2022年 明けましておめでとうございます。平和な日常が戻ることを祈るばかりです。

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12月15日 全音スコア、ドリーブ《組曲 シルヴィア》が出版されました。楽譜制作担当です。

 

11月15日 全音スコア、ムソルグスキー/リムスキー=コルサコフ編《はげ山の一夜》が出版されました。楽譜制作担当です。

 

8月8日 『バンドジャーナル』9月号が発売されました。「バンドミュージックレパートリー」を担当。アルフレッド・リードの名曲を取り上げました。

 

8月5日 タワーレコード/ブレーン株式会社製作のCDアルバム『「エルサレム讃歌」—アルフレッド・リード讃!』が発売されました。当面タワーレコード限定販売です。

 

6月15日 全音スコア、ドリーブ『バレエ音楽 コッペリア』(15曲抜粋)が出版されました。楽譜制作担当です。手書きの底本と作曲者の自筆譜を見比べながらの困難な作業でした。世界的にも珍しい出版です。

 

5月2日 A. リード音の輪コンサートに出演しました。多数のご来場、誠にありがとうございました。

 

4月15日 全音からサン=サーンスの『ヴァイオリンのための小品集』が発売されました。楽譜制作担当です。「従来出版がなかった幻の楽譜も収めています。」

 

4月9日 『バンドジャーナル』5月号の「特集 生誕100年!! アルフレッド・リードの世界」にさまざま掲載していただきました。

 

3月15日 全音スコア、シューベルト『交響曲第9(7)番 グレート』が発売されました。楽譜制作担当です。

 

3月6日 『父・バルトーク』が好評につき重版となりました。おおむね初版通りですが、微細な修正と補記が入っています。今年はバルトーク生誕140周年ということもあり、引き続きご愛顧をよろしくお願いいたします。

 

1月27日 朝日新聞山形版&デジタルにご紹介いただけました。

 

1月15日 全音スコア、ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第3番』が発売されました。楽譜制作担当です。

 

2021年 新型コロナが収束しませんが、リード生誕100周年が始まりました。

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