ブルース・ダフィーの部屋 Conversation with Bruth Duffie

ゲスト 作曲家ヴァーツラフ・ネリベル

この日本語訳は2015年にブルース・ダフィー氏本人より許諾を得て公開。オリジナルサイトはこちら

This Japanese translation is licensed by Bruce Duffie in 2015. The original site is here.

時おり微修正しています。ご了解ください。

 

 ヴァーツラフ・ネリベルは1919年にチェコスロヴァキアで生まれ、プラハとスイスに学び、第二次大戦後にラジオ・フリー・ヨーロッパ(自由ヨーロッパ放送)の初代音楽ディレクターを務めた。1957年に米国に渡り、1996年に逝去するまで居住。指導者、指揮者、非常勤講師を務めたが、主に作曲家だった。その多くの作品の中には大小の合奏曲はもちろん、なんとハンドベルの曲まである。プロフェッショナルな作品を書いたのはいうまでもないが、その一方で若者のために曲を書いたり交流を楽しんだ。吹奏楽曲は特筆に値し、その独特の音風景で彼と出会う人も多い。スクラントン大学が管理する公式ホームページにより詳細な情報があり、同サイトの経歴を巻末に掲載する。
 1986年、ネリベルはある高校バンドを指揮するためにシカゴ地区を訪れ、私たちは練習前の時間にホテルで会うことにした。彼は演奏に期待し、自分の作品について喜んで語ってくれたが、つむじ曲がりな方向に迷い込むこともしばしばだった。彼の声は、声質だけでなく抑揚や話し方も、俳優のピーター・ローレとよく似ていた。といっても臆病な方ではなく、歯に衣着せぬ単刀直入な話しぶりだった。これを読みながら音を想像すれば、その雰囲気を正確につかむことができるだろう。
 ではそのやりとりです。

 (以下、ダフィーの次の数字1〜42は質問番号。訳出用で、いずれ消去します)

 

ダフィー1: ネリベルさんの曲を聞きに来る聴衆に、どんなことを期待しますか?
ネリベル: 一言でいうと、分かりません。聴衆とは誰でしょう? というより、私は作曲している時に聴衆のことを考えていません。

ダフィー2: ではどなたのために作曲しているのですか?
ネリベル: ありきたりな答えになりますが。作曲は私が最も好きなことで、思いつきでなくいいますが、人間としての私の存在を表現する最高の手段です。曲を書くのは一人の人間としての役割と思っていますし、もし私が何かに感動していたら話はもっと複雑です。詳しく話さないといけませんね。たとえば、1年半前に頼まれて書き始めた作品を今日お届けしますが、今度は2年半後に演奏予定のオルガンと管弦楽の協奏曲に取り組むことになります。ずっとそんな感じですね。プレッシャーはないのでアイディアは浮かびます。私は一人の作曲家として、そして一人の人間として、役割を果たします。人間と作曲家を区別することはできません。今まで話したり考えたことはありませんでしたが、そんな毎日です。それだけに、誰のために作曲するかというご質問は興味深いですね。私は経験を共有しようとしています。つまりそれが作曲です。何かに感動したら、それを紙の上に貼りつけて残そうとしているのです。


1960年代、米国第5陸軍バンドを指揮するネリベル
1960年代、米国第5陸軍バンドを指揮するネリベル

ダフィー3: 紙に「貼りつける」というのはおもしろいですね。そうすると、貼りつけるというより、動き始めるのですから。
ネリベル: いえ、そういうことではないのです。口では[ある旋律を速く歌う]と歌えますが、これを書くのにどれくらい時間がかかると思いますか?[同じ旋律をゆっくり歌う]これがたいへんなスピードで流れるのです。おもしろいことに作曲はスローモーションです。我が家にピアノが2台ありますが、ピアノには触りません。作曲は沈黙の中で行います。鼻歌も歌いません。もちろん、ヨーロッパで18歳から20歳の頃はピアノが必須で、助けになりました。ですが、その後ヨーロッパで25年間も指揮をしていたので、心の耳ができあがりました。音が分かってすぐに書き留められます。クラリネット二重奏の曲をピアノを使って書けるでしょうか? オーボエの演奏を思い描いてピアノで弾いたらこうなりますね[テーブルを叩く]。「いや、ミュートしたトランペットに変えよう」と言って、ピアノで弾くとこうなります[再びテーブルを叩く]。ピアノを弾いて作曲するのには抵抗があります。ピアノはスコアの校正に使っています。B♭調でもE♭でもCでも混ざっていても問題ありません。ヨーロッパでは違う音部記号や違う調性で鍛えられました。ピアノは最も手近で正確な「チェック用品」です。私は作曲家として生きています。指導は決してしません。頼まれもしません。アメリカに来て少しだけ頼まれたことがあります。でも、17〜8歳の少年に「いいね」と言うのは責任重大です。その子は「ネリベルにほめられた」と言って、私が何か太鼓判を押したとすぐに思うでしょう。だから私は教えません。自己中心的のようですが、本当は自己中心的ではないのです。それはただ…まあ、このへんで。


ダフィー4: 作曲する上で、ひらめきと技術はどんな割合ですか?
ネリベル: 分かりません。それだけです。答えは簡単ではありません。私自身の考えはありますが、人はどうやってアイディアを得るかとなるとお手上げです。ベートーヴェンの《交響曲第5番》の第1楽章が本当にひらめきで書かれたと言えるでしょうか? この交響曲には12〜3ページのスケッチが残っていて、第二次大戦中に紛失しましたが、私は現物を見たことがあります。テーマが[冒頭の動機を歌う]になる前にスケッチが何ページもありました。それ以前のページには[冒頭と似ているが違う旋律を歌う]などが書いてあり、その後最終的にその中にドラマを見つけました。それがひらめきです。直したり削ったり、どれほどの汗と涙を流したことか。よく言うのですが、ベートーヴェンは偉大な作曲家だったから、この小さなテーマに含まれる宝物を発見し、必死に働いたのです。私は何年もの間、スケッチしたどんな小さなメモも保管するよう努めてきました。その後、委嘱者にアイディアの詰まった私のスーツケース、つまりスケッチの山を見せます。しかし、作曲家には決定的な考えがあるに違いありません。ベートーヴェンは努力でそれをつかみました。強拍を休み、弱拍から始めるという。そこには大変なドラマがあります。その程度のアイディアなら誰でも得られるでしょう。若い作曲家が歳を重ね、数十年前の自分の曲を見返すと、「なぜこうしたんだ? ひどい曲だ」と言うかもしれません。若い人たちは心配症で、急いでいて、時間がないからです。

ダフィー5: あなたはベテランの作曲家ですが、10年、20年、あるいは30年前にお書きになった曲は質が劣ると感じますか?
ネリベル: いえ。たいへん幸いなことに、ある方に大きな影響を受けました。合唱関係の方で私は指揮法を習いました。指揮というより指揮の技法です。チェコスロヴァキアでナンバーワンの合唱指揮者といえる方で、彼から作曲を頼まれました。できあがると私は大喜びでした。できあがったものを見せると、彼はそれを指して言いました。「森林資源の無駄遣いだね。」一生忘れられません。あの著名な人物と国内随一の男声合唱団のために作曲できて有頂天でした。最高の光栄でした。私は21歳だったので落ち込みました。何かうまくいったら「まさか、そんなはずがない」と言ったかも知れません。ふてくされたかもしれません。私が最初に出版したのは《弦楽四重奏曲》、2曲目は《木管五重奏曲》でした。40年ほど前のものですが、100%の自信があります。自分がどれほど偉大かは分かりません。どれくらいダメかも分かりません。しかし分かっていること、私は作曲の仕事を知っています。私は職人です。12音技法も、シンメトリカルな構造の作り方も知っています。私は職人として全力を尽くしています。どんな仕事にも必要だけの時間を費やします。なぜなら体調次第からです。昼と夜で変わるような体調ではありません。たまには徹夜仕事もします。たとえば昨年、徹夜が17回ありました(連続ではありませんが)。娘たちにからかわれましたが、なぜ寝ないといけないのでしょう。私は夜10時のニュースが終わるとたいてい仕事を始めます。その後、12時になっても6時になっても気にしません。翌日、家に鍵をかけて店舗や職場に出かける必要がありませんし、校長が「ネリベル先生は今日はお休みです」と言うのを気にすることもありません。ですから体調さえ良ければ寝る理由がないのです。医者にこのことを話したら、心配いらないと言っていました。横になって3時間ほどウトウトしていて、それが15時間寝たように感じられるそうなんです。幸いなことに、私は5時間か、長くても6時間も寝れば十分です。私には責任がありません。責任というなら家族への責任はありますが。私の大きな責任は収入を得ることです。

ダフィー6: 曲に対する責任があるとは思いませんか?
ネリベル: 感じませんが、当然あります。曲は私の人生、私のすべてです。裏切るはずがないでしょう。

ダフィー7: あなたは作曲のために必要なだけ働けるわけですが、どうすれば作曲が終わったと分かるのですか?
ネリベル: そこがいちばん大変なんです。アイディアが浮かんだらすぐにメモします。そして仕事に取りかかり、ガンガン進め、どこかでストップします。頭の中に何かありそうなのですが、なかなか出てこないのです。ようやく出てきても、速かったり普通の速さだったり、とてもゆっくりだったりします。どうにか書き上げると一段落です。でも、次の曲にすぐ着手できるわけではありません。それどころか、他にすることがたくさんあります。校正やオーケストレーションの調整など、創造と直接関係ない諸々のことがあるのです。その後、回復します。当然その頃には落ち着いています。創作熱は冷め、今度は批評する側にまわります。今は幸いコピー機があって、3部か、多くの場合4部コピーをとって修正を始めます。すっかり直すこともあります。緑、青、赤のペンを使います。その後、次のように書いたリストを作ります。「ああだこうだ…。60小節後を参照。そこは変更したので同じではありません。」そんな仕事に忙殺されます。ようやく完成が見えてきて、磨き上げられ望んだ形になっていきます。それでも「いや、まだだ。やり直し」と言います。それは中毒です。重症のね。たまに午前3時頃に台所に行ってコーヒーを入れるのですが、コーヒー豆を入れ忘れ、ただのお湯を飲んでることがあります。翌日、お湯しか入っていなくて気づくのです。そうやって最後は浄書家に送る時を迎えます。せっかくパート譜を書き上げても、特に大掛かりな曲になってくると、印刷したパート譜セットを買ってくれるユーザーを1人見つけるだけでも至難の業です。同じプロセスででき上がる作品は2つとなく、すんなり書ける時もあれば、形式が先行するのもあります。オーケストラのサウンドが先にあって、じわじわ広がっていくこともあります。同じ出口から左に、右にとは行きません。時には煙突を伝って出ることもあります。

ダフィー8: 引き受けられるよりずっと多くの依頼を引き受けているようにお見受けしますが?
ネリベル: まあそうです。

ダフィー9: どの曲を引き受け、どの曲を引き受けないかは、どう決めるのですか?
ネリベル: この1年半はオーケストラ曲にかかりっきりでした。オーストラリアから1曲、スタンフォードの第二青少年オーケストラから1曲、頼まれていましたからね。専門的な話ですが、そういうレベルで作曲するのは好きです。アイディアがあっても複雑な細部や造形に踏み込めないのがいいんですよ。それでもとにかく曲が必要で、生命体が必要で、形式が必要なのです。演奏者はドラマを経験しますが、それが中学生だったりするのです。今は、たぶん2年半後に着手する曲も頼まれています。オルガンと管弦楽の協奏曲です。フォルダーが400冊ほどあります。几帳面でね。アイディアが浮かぶと、構造やテーマですが、それらを五線紙にメモします。半年後に開けば、どんなものだったか思い出せるわけです。後日、誰かが訪ねてきて、「ネリベルさん、今度コンヴェンションに参加するために、曲を書いてほしいのですが」と言います。今度はとてもはっきりしていますし、その人の話を念頭にフォルダーを探ってみます。その過程はとても偶然です。明日、グリーンベイ市のミロスラフ・パンスキー氏に《木管五重奏と管弦楽のための音楽》を届けます。彼とは20年ほど前にニューヨークで会って以来です。チェコスロヴァキアの出身で、年の差は15歳ほどあります。その頃、彼は「いつか優秀なオーケストラを作り、あなたに曲を書いてもらう」と言っていました。明日会えるのが楽しみです。言いにくいのですが、私には時間があります。プレッシャーはまったくありません。「まったく」というのは、1957年にアメリカに来て以来ずっとです。他にすることもないので時間はあります。

ダフィー10: ご自身の曲が演奏されるのを聞くのはうれしいものですか?
ネリベル: 何とも言えません。ピンからキリまであるので。ただ、演奏に対する意見はありますが。こうであってほしいという願いはもちろんあります。指揮者が私の作品に熱中し、曲と一体になっているといいですね。たとえその指揮者の考えが私の考えと違っていても。

ダフィー11: あなたの曲の理解者に頑張ってほしいですか?
ネリベル: ああ、いいですね。それで「どうすればいいですか?」と聞かれたら、私は「分かりません」と答える。私はメトロノーム記号が好きではありません。速すぎて16分音符がはっきり演奏できないなら、遅くして当然だと思っています。

ダフィー12: ご自分の作品のレコーディングはうれしいですか?
ネリベル: 答えは2つあり、1つめは個人的なもので、やはりうれしいです。理由を聞かれたら、録音には個人の人格が反映されているから好きなのだと言います。それで「ネリベルはこうやった」と思われたら困りますが。私と皆さんとは違います。リスだったら、ゾウではなく最高のリスを目指してほしいし、逆もそうです。皆さんも作品の中に自分を発見し、その作品を自分のものにしてくれたらうれしいです。私にとって最も大事なのは、そこに命があること、そこにドラマがあることです。もう1つですが、昨今、完璧さが尊重されています。誰かが間違った音を出したとことで、曲の緊張感や運びがあるなら、あまり問題にすべきではありません。

 

ダフィー13: テレビでの演奏会番組はうまくいくでしょうか? ご覧になったことがありますか、また賛成ですか?
ネリベル: 私にとって生きた演奏というのはライブ演奏です。それだけです。

 

※ ※ ※ ※ ※

 

第5陸軍バンドでの録音の合間に
第5陸軍バンドでの録音の合間に

ダフィー14: あなたの作品はかなり調性的な語法です。最近では珍しいと思いますが。
ネリベル: 私は自分が調性的だとは決して言いません。調性的な作曲家だったことは、過去も現在もありません。あなたが調性的というのはドミナントとかサブドミナントのことですよね。勘弁してください。私が好きな作曲家はマショーにモンティヴェルディ、バッハなどです。モンティヴェルディは大好きですが大嫌いな一人です。トニックやサブドミナントを始めた張本人ですから。ドイツの作曲家たちがそれに飛びつき、トニックが広まりました。でも、たとえ長3和音や短3和音を聞いても濁りは聞こえます。サブドミナントは弛緩を表し、その後、ドミナントが現れ、目を覚ましてトニックに行けというわけです。私は自分の音楽を「パンクロマティック」* と呼んでいます。12音すべてを使います。たとえば、私の《シンフォニック・レクイエム》の最初の1分半ですが、12音が広い音域の随所で鳴り続け、Fで終わります。12音すべてが鳴っても、皆さんはそれがF調と分かります。トーンクラスターを使って、それを中断する形でオーケストレーションできるのですが、ある和音を3人で演奏すれば「そうだった」と感じます。私の音楽には重力があります。以前、CBSだったか20世紀フォックスだったか忘れましたが、映画音楽がらみの企画に参加しました。トラック運転手や弁護士、ボクサーなど20人が一堂に会して「兵士の物語」** を一緒に歌いました。人それぞれ違うのです。

 * 美術用語で「全色の、フルカラーの」の意味。
 ** 映画『続・夕陽のガンマン』の挿入歌


ダフィー15: 電子音楽に携わったことはありますか?
ネリベル: いいえ。

ダフィー16: またどうして?
ネリベル: 反対するつもりはありません。それによりオーケストラが衰退するとかいう考えはもっていません。この国に来たばかりの頃、私はすっかり魅了され、別世界で舞い上がりました。シンセサイザーのイベントに招待されたことが2度ありました。私の名が刻印されたシンセサイザーをくれるというのです。お断りしました。

ダフィー17: 昨今、音楽はどこに向かっているのでしょう?
ネリベル: さあねえ。[少し考えて]ああそう、思い出しました。第二次大戦後、音楽の真の急進主義が進んだのはドイツと日本とイタリアの3カ国でした。アメリカは違います。確かにここにはシェーンベルクが住んでいましたが、もう過去の人でした。12音技法は馬鹿げているとはいいませんが、人々の関心はトータル・セリエズム(総音列技法)に移り、それもニューヨークで大流行しました。私もニューヨークに1957年から13年間住んでいてさまざま見聞きし、トータル・セリエズムの大流行も目の当たりにしました。《5人の奏者と1人の指揮者のための音楽》などの曲で、またたく間に徹底的な自由に向かいました。理論だけが先行し、関わりたいとは思いませんでした。

ダフィー18: ロックンロールは音楽ですか?
ネリベル: さあねぇ。音楽の用途はさまざまで、何が音楽かということは言えません。以前、我が家で増築工事をやっていた時、ラジオが1日8時間かけっぱなしでした。その時、信じられないものを耳にしました。あるロックンロールの曲がモンティヴェルディの旋律から作られていたのです。ロックンロールは知ってますよ、16歳と18歳の子をもつ親ですから(笑) 子どもたちの音楽的嗜好は滅茶苦茶です。娘はクラシックが得意ですが、2つの顔をもっています。ロックンロールに敏感な一方で、オーケストラでも演奏するんです。

 

※ ※ ※ ※ ※

 

ダフィー19: 経歴では、以前オペラも書かれたそうですね。
ネリベル: ダンサーだけでなく歌手も登場するバレエです。《オンドリと絞首人》という題で、スラヴ民話に基づくものです。登場人物は3通りに分けられ、人間と、人間より上と、人間より下です。人間は歌い、人間より上と人間より下は踊るんです。プラハの国立劇場で3年ほど上演されました。オペラといえば、《エブリマン》というのがあります。テネシー州メンフィスのアメリカ・オペラ協会でオープニングに使われました。管楽器とオルガンという私らしい中世のスタイルです。

ダフィー20: ご自身は歴々の作曲家の系譜の一員だとお感じですか?
ネリベル: どうでしょう。私はチェコらしい作曲家ではありません。旋法的な作曲家です。そのルーツは14世紀かそれ以前です。私の好みは中世の音楽です。スメタナやドヴォルジャークのように調性をもった作曲家ではありません。ヤナーチェクの生家から25kmほどの場所で生まれました。みなおもしろい話し方をします。ぶつ切れで、アクセントも変で。最も身近なチェコの作曲家といえばヤナーチェクでしょう。ただ、私の音楽と彼の音楽は違います。私はもっとスラヴ系でもっと東方系、もっとロシア系の作曲家です。最も影響を受けた作曲家は誰かと尋ねられますが、誰もいません。誰一人としてです。初めて音楽に出会った頃、私はある作曲家をしばらく徹底的に聞いたら、それをやめて次の作曲家を聞き、また次を聞き、ということをしました。いちばん身近だったのは中世の音楽です。先ほども言ったように、私の好みはマショーにモンテヴェルディ、バッハ、それにストラヴィンスキーです。おもしろいことに、第二次大戦がなかったらすべては違っていたでしょう。ヒトラーがチェコスロヴァキアを占領する2ヶ月前、ストラヴィンスキーと会いました*。ストラヴィンスキーの楽譜を所持しているだけで逮捕された時代です。ユダヤ人だそうですが、アメリカにいてドイツ人を憎んでいます。当然リヒャルト・シュトラウスを嫌っていましたし、逆もそうした。ストラヴィンスキーの楽譜を少し持っていて、千年帝国**の暗い時代、彼は私の憧れの的でした。

 *この件は「ヴァーツラフ・ネリベルの生涯」で紹介。

 **千年帝国: ナチスドイツが第三帝国をみずからそう呼んでいた。

ダフィー21: 音楽は政治的でしょうか?
ネリベル: まさか。絵の具の色をすべて使えるとして、それは悪、それとも善でしょうか? ああ、あまり良い例えではないですね。同じ曲でも、聞く人が2人いればまったく違う反応をします。1人はお腹を壊し、もう1人は「最高だ!」と言ったりします。曲には短いタイトルをつけるものですが、それで何が変わるわけではありません。1年経って「ああ、こんなタイトルつけなきゃよかった」という場合だってあるでしょう。なるほど、政治的ですか。政治スローガンの歌詞にメロディをつけることはできますが、それは別次元の話です。厳密に言うと、音楽が政治的なのではなく、政治目的で使われているのです。操られているというか。

ダフィー22: ご自身の曲が将来も演奏され続けると期待していますか?
ネリベル: [質問に驚き]分かりません。そんな予言者的な考えはもっていません。私はここにいて働くだけです。答えはありません。

ダフィー23: でも、20年後とか40年後に演奏される曲があったら嬉しいですよね。
ネリベル: [皮肉っぽく]またどうしてそんな質問をされるのですか?[両者笑い]当たり前です。

ダフィー24: 批評家の役割について、どう思いますか?
ネリベル: 分かりません。本当に分かりません。批評家とは良い思いもしましたし、辛いこともありました。まあ不平はやめておきましょう。まったくの誤解もありました。ある批評家に「ネリベルはもうおしまいだ。彼のテクニックを何一つ示していない」と書かれました。それは中学校バンドのための曲でした。学校レベルの曲を書くということは、手足を縛られて踊るようなものです。1マイルもウォーキングやランニングをすれば〜私は経験がありませんが〜体調や気分がいいとよく言われますが、こういう子ども向けの曲を書くのも気分がいいものです。

ダフィー25: 作曲という行為は楽しいですか?
ネリベル: いや、ひどい仕事だと言った方もいました。私はそんなことは言いません。楽しくなかったらやっていません。

ダフィー26: すると1曲1曲があなたの子どものようなものでしょうか?
ネリベル: まあ、そうですね。 私の一部のようなものです。それが楽しいかどうかですか? 「楽しい」とはどういうことですか? その言葉は外国人の私からすると「ビールでも飲みに行こうか」という感じがします。私にとって本当に美しいものは、喜びを生み出すことです。薬物をやったことはありませんが、気分が高まり楽しいとか言っています。でも喜びじゃないでしょう。喜びの後に荒廃が訪れるなんてありません。子どもがいるのは楽しいかって? たいへんです。でも素晴らしいこともあります。

ダフィー27: 演奏する方たちはあなたの作品の中で、ご自身が気づかないものを見つけたりするものですか?
ネリベル: はい、その通りです。それはプラスであってもマイナスではない何かだと思います。ただ、さらに大事なのはその方が違う魂を見つけたことです。それはその方の魂であって、それが動き出したのです。私の魂とその方の魂。私たちは違う魂ですが、同じ炎で焼かれるかもしれません。たとえ話ですが。

ダフィー28: 曲を改訂することはありますか?
ネリベル: 何度もしました。

ダフィー29: 出版後もですか?
ネリベル: それは少々面倒です。やってみると出版社がどう言うか分かります。私の場合、決まり切っています。「ネリベルさん、この部分はどうかと思います」と誰かに言われたとします。「小さい手で親指だけが大きいみたいで不格好です」とか「ここがうまくないですね」とか言うわけですが、私は拒否します。なぜなら膨大な時間がかかるからです。1曲に2年半かかるかもしれないのですから。

ダフィー30: あなたは一度に1つだけのことをしますか、それともいくつかのことを同時に進めますか?
ネリベル: 段階によります。アイディアを生む段階は、思いつけばすぐファイルに放り込みます。お話ししたように、ベートーヴェンは(第5番の冒頭のテーマを歌う)が素晴らしいと知りました。

ダフィー31: 名曲はそうやってできるものですか、小さなアイディアから?
ネリベル: 何とも言えませんね、分かりません。20人が聞いたら20通りの意味になるでしょう。初めから嫌う人もいれば、「最高だ!」という人もいるでしょう。


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スクラントン大学ウィンドアンサンブルにテューバとバンドのための《コンチェルト・グロッソ》を指導する。1996年3月12日(逝去の10日前)
スクラントン大学ウィンドアンサンブルにテューバとバンドのための《コンチェルト・グロッソ》を指導する。1996年3月12日(逝去の10日前)

ダフィー32: ご自身の曲を指揮する場合、リハーサルでどれくらい時間がかかりますか? また、演奏をどれくらい準備するものですか?
ネリベル: 場合によります。大学生が相手だったら、プロに近いレベルです。私はまず演奏の良いところを探します。作戦を練り、どれくらいコントロールできるか知るためです。練習の時はいつも、曲全体のダイナミックスの頂点がどんな役割を果たすか伝えようとします。その後の演奏を聞けば、全然違うサウンドに変わっています。ヒューストン市選抜オーケストラを指揮したことがあります。素晴らしいオーケストラで、それまで最高の若者オーケストラの1つです。私の20分ほどの曲をメキシコシティで7回指揮しました。楽しかったですね。

ダフィー33: 作曲を始める時、曲がどれくらいの長さになるか分かるものですか?
ネリベル: さあねえ。曲を頼む方は、たいてい「15分の曲を」などと言うわけで、困るのです。決まった方法はありません。特に方法があるわけでもなく、説明がつきません。

ダフィー34: あなたの曲を演奏会で取り上げる時、現代音楽だけのプログラムがいいですか? それともベートーヴェンやハイドン、ショスタコーヴィッチなどと一緒のほうがいいでしょうか?
ネリベル: どなたにでも事情がありますから、どんな理由でどう使ってくださっても構いません。

ダフィー35: あなたはご自身の曲の理想的な理解者ですか?
ネリベル: おやおや、おもしろい質問ですね。そもそも私は理解者ではありません。指揮者がどれくらい理解者なのかも分かりませんね。

ダフィー36: 指揮者にアドバイスしたりはしませんか?
ネリベル: いえ、できる限りそうしないようにしています。かなり基本的な点を間違っていて、私の話をその指揮者に伝えられる方がいれば別ですが、実際そうした立場にならないようにしています。私は審査はしません。

ダフィー37: コンクールで審査はしませんか?
ネリベル: いいえ。一度しましたが、それきりです。

ダフィー38: 音楽の高みを求めることは難しいということでしょうか?
ネリベル: 高みとは何でしょう?

ダフィー39: あなたが目指しているものではありませんか?
ネリベル: 目指さない人はいません。一人残らず目指しています。誰にでも限界はあります。限界に近づき、それを越えようとします。

ダフィー40: 名声は望んでおられないのですか?
ネリベル: 名声とは何でしょう?

ダフィー41: 多くの方が評価を気にしていると思いますが。
ネリベル: 本当に考えはありません。

ダフィー42: 今日はお話を聞かせていただき、ありがとうございました。演奏会のご成功をお祈りいたします。
ネリベル: こちらこそありがとうございました。

 

ヴァーツラフ・ネリベルの略歴(スクラントン大学の公式ホームページより)


 国際的に有名な作曲家ヴァーツラフ・ネリベルは、1919年9月24日、チェコスロヴァキアのポラーンカ生まれ。作曲と指揮をプラハ音楽院で(1938-42)、音楽学をプラハ大学とスイスのフリブール大学で学んだ。第二次大戦後、スイス国営放送で作曲家・指揮者、フリブール大学で講師。1950年からドイツのラジオ・フリー・ヨーロッパの初代音楽ディレクターを務め、1957年に米国に移民。その後、アメリカに家を構え、1962年にアメリカ市民権を得た。ニューヨークに長年住んだ後、コネティカット州リッジフィールドに、そして1994年にペンシルヴェニア州スクラントン近郊に転居した。米国での長い経歴の間、世界中で作曲家、指揮者、教師、非常勤講師として活躍。スクラントン大学にコンポーザー・イン・レジデンスの立場で在職中の1996年3月22日、逝去。
 多作家のネリベルは、協奏曲やオペラ、室内楽、管弦楽、吹奏楽、合唱やアンサンブルなど数多く作品を残した。生前400曲以上が出版され、200曲を越える未出版曲が出版準備中(ネリベルは作曲に対する情熱が勝るあまり、作品のマーケティングの時間がなかった。そのため、委嘱を受け初演された多くの曲が未出版)。多くの作品はプロの演奏家のために作曲されたが、学生向けの魅力的なオリジナル曲を書くことにも関心を寄せ、若い演奏者と音楽を作って楽しんだ。
 ネリベルは時代の音楽的衝動と自己の感情を見事に統合し、既存の作曲技法から慎重に選んで、自身の考え方や方法論と融合させた。彼の音楽に最も顕著な特徴は、線状の旋法という志向である。メロディラインの自立に対する関心に次ぐ第2の重要な特徴は、動きと拍動、言い換えればリズムと拍子である。これら動きと拍子の2つの側面の相互作用がネリベルの音楽の特徴である。多くの作品でこれらの要素を補完しているのが不協和音の集積や厚みの増大、激しいダイナミックス、そしてフルカラーの色彩によって生み出される緊張感である。不協和音もしばしばあるが、ネリベルの音楽は常に調性の中心音に引き寄せられ、そのことが演奏者と聴衆にとって一様に魅力となっている。
 ネリベルは作曲において数々の受賞歴をもつ。1947年にバレエ《ライムの木陰》でデンマークのコペンハーゲンでの国際音楽舞踊フェスティヴァルに入賞、1954年に《レジェンド》でニューヨークのラヴィッチ財団主催のコンテストで第1位、1978年に吹奏楽界のオスカー賞といわれる吹奏楽アカデミーを受賞。4つの大学が名誉博士号を授与。ネリベルの項目がある事典・辞書は、アルフレッド音楽事典、ベイカー音楽家事典、国際音楽人名録、吹奏楽曲遺産百科事典、グローブ音楽・音楽家辞書、ニュー・グローブオペラ辞書など多数に上る。
 ネリベルの曲は世界中で演奏され、彼の作品が演奏された国は今も増えている。

(c) 1995 by Bruce Duffie

 このインタビューは、1986年10月25日にシカゴ郊外で録音。1989年、1994年、1999年に一部がWNIBで放送された(曲と一緒に)。この逐語録は2011年に製作してこのホームページに掲載。
 ブルース・ダフィーは1975年から「クラシカル97」として知られるシカゴのWNIB放送局に始まり、2001年2月に某クラシック放送局を最後に引退するまで、数々の受賞歴をもつアナウンサー。彼のインタビューは1980年以来さまざまな雑誌で取り上げられ、現在はWNUR-FM放送局やコンテンポラリー・クラシカル・インターネット・ラジオでさらに継続中。
 彼のホームページにはその業績がさらに詳しく、他のインタビューの抜粋やすべてのゲスト一覧もある。彼はまた1世紀以上前に自動車業界の先駆者だった彼の祖父の写真や情報にも関心を持ってほしがっている。ご感想、ご質問、ご意見はメールでどうぞ。

ニュース・近況

 

12月10日 コバケンとその仲間たちオーケストラ 史上最高の第九に挑むVol.4に出演予定です(東京)

 

6月25日 コバケンとその仲間たちオーケストラ第86回演奏会に出演予定です(東京)

 

6月23日 10年に及ぶ準備を経て、このたび『アルフレッド・リードの世界 改訂版』が刊行されました。どうぞよろしくお願いいたします。

 

4月23日 真島俊夫メモリアルコンサート"natal"2023(山形県鶴岡市)に出演しました。

 

4月15日 全音スコア、ブラームス《ヴァイオリン協奏曲》が発売されました。楽譜制作担当です。

 

2023年

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1月25日 アルフレッド・リードが生誕101年を迎えました。

 

1月15日 全音スコア、リムスキー=コルサコフ《スペイン奇想曲》、全音ピアノライブラリー『マスネ:ピアノ小品集』が発売されました。楽譜制作担当です。

 

1月8日 『バンドジャーナル』2022年2月号の「コンサートレビュー」にオオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ第139回定期演奏会の報告を書きました。

 

2022年 明けましておめでとうございます。平和な日常が戻ることを祈るばかりです。

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12月15日 全音スコア、ドリーブ《組曲 シルヴィア》が出版されました。楽譜制作担当です。

 

11月15日 全音スコア、ムソルグスキー/リムスキー=コルサコフ編《はげ山の一夜》が出版されました。楽譜制作担当です。

 

8月8日 『バンドジャーナル』9月号が発売されました。「バンドミュージックレパートリー」を担当。アルフレッド・リードの名曲を取り上げました。

 

8月5日 タワーレコード/ブレーン株式会社製作のCDアルバム『「エルサレム讃歌」—アルフレッド・リード讃!』が発売されました。当面タワーレコード限定販売です。

 

6月15日 全音スコア、ドリーブ『バレエ音楽 コッペリア』(15曲抜粋)が出版されました。楽譜制作担当です。手書きの底本と作曲者の自筆譜を見比べながらの困難な作業でした。世界的にも珍しい出版です。

 

5月2日 A. リード音の輪コンサートに出演しました。多数のご来場、誠にありがとうございました。

 

4月15日 全音からサン=サーンスの『ヴァイオリンのための小品集』が発売されました。楽譜制作担当です。「従来出版がなかった幻の楽譜も収めています。」

 

4月9日 『バンドジャーナル』5月号の「特集 生誕100年!! アルフレッド・リードの世界」にさまざま掲載していただきました。

 

3月15日 全音スコア、シューベルト『交響曲第9(7)番 グレート』が発売されました。楽譜制作担当です。

 

3月6日 『父・バルトーク』が好評につき重版となりました。おおむね初版通りですが、微細な修正と補記が入っています。今年はバルトーク生誕140周年ということもあり、引き続きご愛顧をよろしくお願いいたします。

 

1月27日 朝日新聞山形版&デジタルにご紹介いただけました。

 

1月15日 全音スコア、ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第3番』が発売されました。楽譜制作担当です。

 

2021年 新型コロナが収束しませんが、リード生誕100周年が始まりました。

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